11月12日小春日和のもと、天国にいる祖父が半世紀以上前に佐味町から清水平町まで祖母と私の叔父(初子)に日参した山道を佐味古墳保存会メンバー3名で辿ってみた。
前回(8月22日)礒貝理事の記憶に頼って古墳横から雑木を切り払いつつ「坂の平道」に出て「送電線管理道」経由縁結び地蔵まで歩いたが、どうもこの道は目当ての道ではなかったようだ。改めて本日高田川をさかのぼり飯山顧問の歴史談義を伺いつつ縁結び地蔵まで歩いたが、そこから更に祖母の里である清水平町まで、祖父は我が子可愛さに片道6kmの道中を往復したというから俄には信じ難い。我々は縁結び地蔵から先は待機して貰った車を利用したがやはり大変な山道であった。
県道百海七尾線の佐味町地内の峠に縁結び地蔵があり、そこから佐味町の在所に下りる坂を「嫁坂」と呼んでいる。清水平町をはじめ、柑子町や庵町から佐味町に嫁いでいる人が多く、一昔前までこの坂道を花嫁道中して来た様子を想像してしまう。その「嫁坂」は、現在も佐味町の有志により定期的に管理されており、前回とは雲泥の差で歩きやすい環境が整っていた。
「嫁坂」の登り口に至るまでにも、大好きだった祖母と遊んだ畑の横にある「坂の平道」の登り口や、その先にあった在所の火葬場跡も知ることができた。飯山顧問の少年時代には佐味町に2ヶ所の火葬場があり、荼毘に付す際の煙がたなびいている景色が日常の光景だったというお話には驚嘆した。
「嫁坂」を登ってみると、石灰質のシルト層が目立ち、滑りやすい土質で注意を要したものの(石灰岩は家庭で台所の洗剤として使ったそうだ)、手入れが行き届いた竹林が道中にあり、京都を彷彿とさせる絶景に息を呑んだ。汗をぬぐいつつ歩くこと20分、縁結び地蔵に到着、小休止して柿にかぶりつく。
縁結び地蔵にお参りしてそこから車で清水平町に着くと、朽ち果てた祖母の実家と眼前に望む清水平小学校跡の野原を眺めて諸行無常の念を抱くとともに、自身のルーツを辿る道程を確認しえたこと、そして何より祖父が当時感じていたであろう高揚した家族愛に想いを馳せながら、富山湾越しに立山連峰が見える庵町まで抜け、佐味町までの帰路では先祖へ深謝しながら、子孫へ想いを繋げていくことを天国の祖父に誓った。
佐味今田谷内古墳での桜植樹を翌日に控えた11月12日早朝東京を発ち七尾湾クルーズに参加しました。なかなか体験できない有意義な旅となりました。
能登国七尾は律令時代の一時期、越の国に属していたため、国司として赴任した大伴家持が領内を巡行して詠んだ歌が万葉集に残されています。
「香島より熊木をさして漕ぐ船の…」の歌を辿って能登立国1300年行事の一環として「大伴家持クルーズ」が企画されました。
快晴の澄み渡る青空の下、穏やかな海にいざ出航です。
能登島のすみれ会の皆様が手をかけて作ってくださった「能登万葉御膳」。
なまこの酢の物や万葉集にも出てくるしただみ貝、美しい椿寿司や能登の食材を満喫。
七尾湾には能登島をはじめ、大小さまざまな島が浮かんでおり、カキやなまこの養殖が行われています。七尾で採れた海の幸は、はるか平城京まで運ばれていたそうです。
万葉集第十六
香島嶺の 机の島の しただみを
い拾い持ち来て
石持ち つつき破り 早川に洗ひ漕ぎ
辛子塩にこごと揉み 高杯に盛り
机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自
この歌から、遠く家族を想う家持の望郷の思いが伝わってきます。
クルーズ後半、突然船長の「イルカがいますよ。」のアナウンス、目を凝らして遠方を見るとなんとイルカのヒレらしきものが波間に!イルカ達にもクルーズ客の興奮が伝わったのか、数頭こちらに向かってぐんぐんスピードを上げてやって来て船の下に潜ったり船の横で泳いだり。このイルカ達は七尾湾に定住している野生のイルカだそうです。クルーズの最後を盛り上げてくれた嬉しいサプライズでした。
穏やかで豊かな七尾湾が、いつまでもイルカにとって住みやすい場所であるよう願っています。
今回の旅で感じたのは「時の持つ力」です。
大伴家持が1300年前に詠んだ歌にある景色が目の前にそのまま現れてきました。
海と島は日本人が心の中に持っている永遠のテーマ。
青い穏やかな波に揺られながら、遠くにあるものへの思いを巡らせる...
古へから伝わっているものを、時間をかけて次世代に伝える大切さを感じ、日本の歴史に思いを馳せた一日でした。
(参加された岩瀬直子さん伊賀久美子さん高橋里美さんに綴っていただきました)
船の性は女性と聞く。「処女航海」「クイーンエリザベス号」と。でも「処女峯」「プレジデント・ウィルソン号」があり性へのこだわりは不要なのだろう。
外遊なぞ無縁の昭和初期「浅間丸」「龍田丸」等、洗練された姿を写真で観る楽Lみのみの日常で、芝浦埠頭から千葉の館山まで東京湾を横断の小さな船旅は小学生の私の無上の喜ぴとなった。其の後の世情苛烈な世を経て再ぴ船を身近にしたのは、昭和三十年代妹が留学で横浜からアメリカへ旅立った時。アメリカの巨船上、貌も定かに見えぬ高いデッキに立つ妹と家族一同、前途への思いを籠めてテープを交わし、汽笛と共に巨体がゆっくりと岸壁を難れ、港外へ向け次第に遠離るのを見送った。その時空には緩やかな時の移りに、知らず齎される醇化された情趣が止めどなく湧き、流れとなり消し難い余情が占めていた。このような出港の場の雰囲気を余すなく演出した映画「望郷」があった。「アルジェ」の「カスバ」に逃れた悪党が母国人に偶ったのが機で、望郷の念止み難く出向の船を追い、閉ざされた埠頭への門扉に縋りつつ覚悟の自死。其の向こうには汽笛を鳴らしつつ去りゆく客船。その斜白のないシーンの醸す纏綿たる情緒は心憎いばかり。出向の雰囲気を存分に活用した圧巻の場面であった。
扨て時代はジェット機の発達で海外への旅客輸送は航空機が手段となり客船は世界一周などのクルーズ船の旅に活躍と変遷。移動を簡素化し時間をゆったりと費やされるクルーズ船の旅は人気上昇。外国には十五万噸超のクルーズ船もある由。当金沢でもクルーズ船の寄港が増す現況で図らずも甥夫婦に金沢港発着の旅へ招かれた。船は「にっぽん丸」(船名に魅力)二万二千噸余。斯くして見聞を広め楽しむ船旅の出立。乗船客五〇〇人近く、乗務員二二〇人(半数フィリピン人)速度は概ね一六節(凡そ三〇粁)沿岸から二〇哩(約三二粁)を航行し日本海を屋久島・上五島へと南下。船上より本土と「白山」を、は往復共に視界悪く叶わず。気象の変化で最も恐いのは台風との事。憶えば昭和末に壮絶恐怖の極限の海難事故があった。冬の太平洋の荒天は凄まじい由で、其の猛烈な時化に遭い日本を目前の近海で超大型の貨物が真二つに折れ沈没「板子一枚下は地獄」の宿命を負うとは言えあまりに無惨な遭難に唯々絶句……。
処で乗船証は私の乗船中の守護神と気付き(救命ボートも明記)船旅の寛ぎを些か引き締めた。使う水、電気、下水も完備の状況から船は洋上の都市?と今更ながら想念は拡がる。更に乗船者なべて一蓮托生の洋上で、若し危惧する事が起こったなら……と思い及んだ処、船長は一定の司法警察の権限を持ちその存在は絶対の由。そのような権限を行使する事は先ずないそうだが、白服白靴の瀟洒たる外見に潜め持つ一面である。
船内にはジム・パー・美容室・ライプラリーありのコンパクトな都会。夫らを適宜に利用すれば時はいと速く、夜もカクテルパーテイー・余興と船上の圧縮された社会空問で、融和し楽しむ方途が仕組まれ時の経過は昼と同じく速い。
日本は資源のない海洋国家。船舶は国の死活の担い手として重要な存在。船の寿命は十五年程の計算ときくが、因みにかの戦いで残った客船は病院船となった「氷川丸」のみと……。茲に船がその寿命を全うし得る平安な世を切望しつつ拙文の筆を擱く。
1.佐味町会に発掘協力の依頼が舞い込む
平成25年(2013年)の秋、七尾市教育委員会から当時町会長の私に、佐味町の今田谷内山林に所在する古墳群の公的発掘調査を、地元町会の協力を得ながら進めたいとの話が舞い込みました。
早速近隣の方に古墳群が残されていることを知っているか聞くと「長年近くに住んでいるが知らなかったし親からも聞いたことはないのでただの山林だと思っていた」とのことで誰も知らなかったことに意外の感に打たれました。
しかし山林の所有者の礒貝さんが古墳群の発掘調査と保存を目指す構想を長年温めながら志を同じくする方々と語らって古墳保存会を設立し、教育委員会に働きかけを続けたことによって調査のゴーサインが出たことを知り、地域の歴史遺産を守るためにも協力することにしました。
また、近くには国指定の万行遺跡があるほか別の古墳も存在しておりこれらの遺跡と今田谷内古墳群の関連性が解き明かされれば佐味町にとっても意義のあることと思ったことも協力に踏み切った理由の一つです。
市教委からは作業員を地元で募ってほしいと言われ、周囲の方を拝み倒して何とか9名の方の協力が得られました。私も町会長として引くに引けず作業メンバーの一員に加わりました。
2.苦労の連続であった発掘調査
作業はまず伐採した大木を墳丘から下の地面におろすことや抜根から始まりましたが、これが並大抵のことではありませんでした。農作業なら慣れていますが、このような作業は全員に取って初めての経験でした。力仕事であることは勿論ですが、ちょっと油断すると大怪我の危険も隣り合わせでしたから注意しながら汗びっしょりになって取り組みました。大いに手古摺りましたが幸い事故もなくまずは片付け作業を終えました。
次はいよいよ前方後円墳の発掘調査に着手しました。古墳の本体は盗掘や大木の根っこで破壊されているので、周囲に溝を掘り埋蔵物の発見に期待しながら作業を進めましたが、やはり木の根や竹の根がはびこって除去に時間を費やすこととなり、須恵器の破片など数十点が見つかったもののめぼしい埋蔵物は見つからないまま調査は終了となってしまいました。
3.円墳未着手のまま調査終了
作業に携わった我々は、盗掘の形跡がない手つかずの円墳も発掘調査の対象になっていると思って取り組んでおり、さあ愈々埋蔵物を見つけることができるのではないかと期待していたので、調査責任者から「今回はここまでで終わりです」といわれた時には拍子抜けした思いであり、円墳を眺めながら後片付けをしつつ実に後ろ髪をひかれる思いでした。
古墳群の鎮まる丘からは眼下に田圃と海が見渡せて、古代にも米を栽培していたであろうし往時に七尾湾を行き交っていた船を想像することもできます。古墳保存会のホームページに記載されているように古墳群は七尾湾を起点とする海上交通を担った有力者の墳墓と考えることもできるでしょう。私たちはそうした古代に想いを馳せながら作業に取り組み汗を流しました。古代へのロマンを感じながら作業できたことは大変幸せなことだったと思っています。
4.桜植樹と手入れの継続
さて、発掘調査が一段落したあと平成28年(2016年)11月16日古墳群周辺と古墳に繋がる小径に、七尾市から提供された桜の苗木を13本植えました。
この作業には佐味町会の方々や礒貝さんはじめ古墳保存会のメンバーなど関係者が参加して鍬をふるい、慣れない手つきの方もおられましたが将来の桜名所を夢見て秋晴れの一日交流を深めることができました。単に古墳群が鎮まっているというだけでは物足りないので桜の咲くころ皆で集って古代に想いを馳せるとともに眼下の海を眺めつつこの海が世界に繋がっていることを実感できればどんなにか素晴らしいことかとも思います。古墳保存会主催で開催された「SAMIサロン」で紹介された通り、オーストラリアからの石炭船やサウジアラビアからのLPG船が七尾湾に寄港していますし、大型のクルーズ船も時折姿を見せていますから、桜満開の頃こうした光景に接する日も近いのではないでしょうか?
翌年翌々年も桜植樹を続け、また植えつけた桜の手入れや草刈りに励みつつその日の訪れを心待ちにしています。桜植樹は今年(令和元年)も11月9日に執り行われると聞いています。地元の方々のみならず首都圏から来られる皆さんとの再会が楽しみです。
5.今後への期待
世界に繋がっている七尾湾を見下ろす古墳群の傍らにたたずみ、満開の桜を愛でながら古代に想いを馳せることのできる場所が、ここ佐味町に存在するということは大変貴重なことではないでしょうか?町民のみならずこの地を訪れる人たちにも共有していただきたいと願っています。
ゆくゆくは桜の名所でもある「古墳公苑」とすることができないでしょうか?そのためにも、具体的な出土品が期待される円墳調査が待たれるところです。
前方後円墳のみの調査で終わらせずに円墳を調査して学術的成果を手にすることが、名実ともに古墳(あるいは史跡)として認知されるために不可欠ではないかと思っています。前回の作業に携わった一人として、古代のロマンを自ら探り当てたいと手ぐすね引いて教育委員会からお声がかかるのを待っている次第です。
書物や映像に頼らずに歴史の遺物である古墳に足を運んでこの目で見ることができる地域はそうそうはないのではないかと思います。百舌鳥(もず)古市古墳群が世界遺産に登録され大変盛り上がっていますが、よくよく考えるとあの古墳群は規模が大きすぎて一般人は持てあますことになるのではないでしょうか?それにくらべると我が佐味今田谷内古墳群は適正な規模で、かつ円墳と前方後円墳が揃っていますし、桜満開の頃ともなれば、地域の誰でもがそしてどこから来た人でもお茶とお弁当持参で近くにいき古代に想いを馳せることが可能です。とくに近隣の東湊小学校の児童にとっては、古代から海に育まれてきた七尾の歴史を実感できる格好の教材になると思います。
但し円墳の実態が全くベールに閉ざされたままでは訪れる人も物足りないのではないでしょうか?
地域にこのような歴史遺産が残されており、未解明のことが多々あることを発掘調査に携わって初めて知ることができました。調査保存を通じていろいろな方々とのご縁のできたことに感謝しつつ、今後とも地域の一員として佐味今田谷内古墳群の調査保存や里山の維持に関わってまいりたいと願っております。